2026年7月18日
明日の備えのために「悲しみ」
明日の主日はルカ18:18-27を分かち合います。「持っている財産をすべて施してしまって、わたしに従いなさい」とおっしゃる、イエス様の途方もない要求を前にして絶句してしまう金持ちの議員の姿が印象的な場面です。
彼は「これを聞いて非常に悲しんだ」とあります。
この「悲しみ」について考えていたところ、ちょうど先週読んでいた本の中で、紹介されていたエピソードが響き合いました。
オランダで弁護士・作家として活躍されたフローリス・バーケルスという人がいます。彼はドイツの強制収容所での経験をします。そこでの極限の経験において、彼の霊的感覚は研ぎ澄まされます。
これまで自分を宗教的な人間であると考えたことはなかったそうですが、死に瀕した友人たちに応じる中で、「神、イエス、福音」について語っている自分に気付いたそうです。そして、自分自身と相手のなかに、この世のものではない平和を見いだしたそうです。
自分に何が起こっているのか、それを把握するのは難しいことでした。しかし34年後に、彼はこう書いています。
「古い人が死に、新しい人が生まれる。・・・しかしこうして古い人が去っていくことは、途轍もない悲しみだ。『神へと向かう悲しみ」、世の悲しみ―過ぎ去っていくもの、消えていく世界、すべてを手放すことへの悲しみ・・・。私にはこの世界への強い執着があることに気付くようになった。・・・・(中略)・・・・永遠の光がゆらめくもとで、私は新しいプロセスを開始した。古い人を横たわらせ、別れを告げる。この世から去っていく。生命そのものにも、もはやしがみつかないようにする。そして・・・新しい人を着たいと願う。静かな炎になりたい。自分の惨めな肉体を忘れて、空高くのぼっていきたい。私をつくった『力』のもとへ帰りたい・・・いや、うまく表現できない。・・・だが、自分がすべきただひとつのことはわかっていた。すべてをその方に委ねることだ。」
私たちにもまた、極限状況においてはじめて見えてくるものがあるかもしれません。
でも、だからこそ、今の生ぬるい生活の中でこの御言葉が与えられたことの意味について、考えさせられています。
共に祈りましょう。
主よ、どうか教えてください。執着ということを、信頼ということを、捨てるということを、死ぬということを、委ねるということを、献身ということを、イエスに従うということを。
「日々の祈り」
毎週火曜日から金曜日、希望者に配信されている「日々の祈り」です。過去の配信は、ブログにまとめられています(約10年分)。